人生のおつまみ

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日本の学校教育は絶望的なのか。若い時期を学校でほぼすべて使う意味

今日はこんな記事が気になりました。

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学校では規律を守ることが絶対視がちですけど、生徒だけではなくて、教師にも負担が大きくなっているというのが最近の問題になっています。教育って難しいです。

8月からオーストラリア人の交換留学生を自宅で預かっている。彼女は日本の高校に通っている。学校での様子を聞く中で、この国の教育にあり方についてあらためて考えさせられてしまった。

 留学生からの視点は割と新しいと思います。中々日本の教育に対する本音って聞けないですし。オーストラリアから来たみたいですけど、やっぱり日本とは違うんだろうなと感じます。文化が違うので、日本のリアルな学校の話を聞けますし、オーストラリアと比較して何が違うのかが明確になります。今思うと、僕の子供の時代も行き過ぎた学校教育はあったので、海外から見たら日本の学校教育は異質なものとして映ると思います。

 

「文化祭の練習が終わったと思ったら、今度は体育祭の練習。しかも、同じようなことを何度も何度も練習をする。なんで日本人はこんなに練習をするの? 私はもっとほかのこともやりたいから、早く帰ってきたいのに」

 この習慣って僕の場合は幼稚園からありました。運動会のような何かの大会での出し物として、大太鼓・小太鼓の発表というものがあったんです。その練習が壮絶ハードで、先生に怒られて、怒鳴られて、手を上げられたこともありました。忘れ物をした時にもビンタされましたけど、その太鼓の練習でもそれを忘れるぐらいハードな練習が行われていました。当時は恐怖で思考停止になっていましたけど、何かを強制するのは日本の特色なのかもしれない。大勢で集まって、仲間同士(本当は仲間でも何でもないけど)で共感して一体感が生まれるように洗脳するのが目的なんでしょう。文化祭はそうでもなかったですけど、体育祭は行進などの練習で1日が潰れることなんて普通でしたから。

 

確かに日本の学校は各イベントの準備にやたらと時間をかける。そして、それらに参加しないことは雰囲気が許さない。参加しなければ仲間外れにされるか、少なくとも話題には加われなくなる。村の行事にかかわり続けなければ村八分にされるようなものだ。

日本の教育の本質はここにありますね。何か社畜を育てる環境な気がします。中学生の頃に評定平均という、生活態度を点数として評価する数字があったと思いますけど、あくまで参考のはずなのに、高校受験の時には半分近くのウエイトを占める謎の数字になっていました。要は、頭が悪くても生活態度が良かったら評価するという所でしょうか。僕は数学や理科を頑張って勉強したのに、先生からほとんど褒められたことがなくて、成績が悪い人ほど可愛がられるという意味不明な体験をしたことがあるので、ほんとに学校の成績はあまり関係ないんだなあと感じました。

まあ、それはそれでもいいかもしれませんけど、天才は生まれにくいでしょうね。大学ではかなり尖ったな人が数多くいましたけど、僕と同じような体験をした人もいました。先生の言うことを聞く人だけが信用されて、ちょっとでも反論すると煙たがれる。

 

確かに、同じく高校生の娘は、夏休みは毎日のように部活の練習があった。おかげで、家族旅行にも行けずじまいだった。もっとも多くのことを吸収するはずの10代後半の貴重な夏休みがほとんど部活だけというのは、時間の過ごし方としてはあまりにももったいない。

 学校の部活で満足している人はそれが大丈夫だと思いますけど、部活が強制参加、参加しないと仲間外れにされるならまったく意味がないですよ。やりたいことがあるのに出来ない。というよりも、大人も友達もそれを許しません。でも、家族旅行にも行けない部活って何なのでしょう?全国大会を狙っている部活なら分かりますけど。吹奏楽とか厳しい所はキツい練習があると聞きますし、野球やサッカーも同じ。ただ、一部のレギュラーや控えのために、一般部員が被害を被るのはどうなんでしょうね?仲間外れにされる可能性が高いので辞めるに辞めれませんし、強い部活の場合は、学校内カーストのトップクラスがその部活にいることもあるので、辞めるに辞めれない。強制参加で逃げれない環境。最悪です。

 

村社会の発想がいまだに脈々と流れているのか、日本人は狭いコミュニティに帰属し、帰属させるのが好きなようだ。社会に出てからも、朝から晩まで会社で過 ごし、夜は会社の上司や同僚と飲んで帰り、帰るところは会社が用意した社宅だ。下手をすると、休日も上司とのゴルフということになる。

帰属させて社会に奴隷として資源を還元させるのが日本の働き方。日本でも自由に働ける企業もありますけど、コミュニケーションが大事で、如何に上司と仲良くできるかがポイントになっています。人間関係が良くのならいいですけど、理不尽だらけの職場が多い中、その土壌を作っているのが学生時代からの教育現場なんだと思います。上司と同僚との付き合いは、そのまま学校での先生と友達との付き合いと同じですし、それが出来ないと評価されないのも同じ。尖った人材はそりゃ捻くれる。学校教育がそのまま社会の縮図になっている側面もあるので、子供時代からかなり過酷だと言えます。もちろんまわりに合わせられる人もいますけど、それが出来ない子ももちろんいるわけで。

 

日本のテスト

「日本のテストは簡単ね。全部、空欄に言葉を入れるだけか、選択肢を選ぶ問題ばかり。日本の高校生は論文は書かないの? オーストラリアではテストは論文 ばかり。本を何冊も読まないとできない宿題も毎日のように出される。日本のように部活、部活の生活なんかしてたら寝る時間なくなるね」

大学のテストみたいです。日本はテストは点数がすべてで自分で考えることは要求されていませんから。本を何冊も読んで論文を書くテストは小論文ぐらいでしょうか。特に私学では進学がすべてですから、受験にあまり関係のないテスト形式は出ることが少ないとは思います。トップクラス校になると論文形式も出ることもあるそうですけど、根幹は受験対策。日本で論文というと、学者や研究者、政治家などが書くもので、高校生などは書くことがあまりない。日本の読書感想文が少し近いしもしれませんけど、感想文なんで本質的な違いはあります。

 

要するに、日本の教育は、言われたことを忠実に再現するよう徹底的にトレーニングする教育なのだ。これではワーカーとしては優秀な人材が輩出できても、優秀なリーダーを生み出すことはできない。イノベーションを起こす人材の育成など絶望的だ。

 まあ、これが答えでしょう。一部の支配階級、会社の社長や政治家などが手足のように使える人材がもっとも重宝されるということ。ワーカーとしては優秀ですけど、リーガーとして新しいことが中々できない。しかも支配階級に昇ろうとすると、コミュ力という謎の力が必要になるわけで、自分の意見よりも相手の意見を如何に褒めるかが重要なスキルが非常に大事になっている。海外は天才を育てる教育ですけど、日本は平等に平均的な人材を育てる教育で、トップに立っている人が使いやすい人材を排出するシステム。僕は、それはそれで良いとは思います。思考停止に近い状況になるかもしれませんけど、日本は海外に比べて治安もいいですし、コミュ力を鍛えていけば給料も上がるんですから。ただ、何か革新を起こすことは難しくて、利権を持っている人達とも戦う必要が出てくるわけで、平等が合い言葉の日本では天才は生き難いとは思いますけど。

 

あくまで部活で忙しいというのは、部活競合校などの一部の学校だけだとは思います。ほとんどの学校では部活に入らなくてもいいですし、仲間外れになることも少ないはずなんで。ただ、一度入ってしまったら厳しいです。辞めたらやっぱり仲間外れにされることもありますし、日本って一度そのグループに入ってしまうと抜け出すのが極端に困難な文化があります。だから、自分の立ち位置をしっかりを見ておくことが大切なんですね。